TGS

行ってきた。
今年はいろいろあって見られないブースもあったので断定的には書けないけれど、impressiveだったタイトルは無し。もちろん二ノ国みたいに旅愁を感じさせるタイトルも重要だとは思うけど、我々は基本的に"見たことが無いもの"を見たい。あと二ノ国は微妙におっさん過ぎる気がする。
GREEの出展がネガティブに言われすぎな気もするけど、エンタテインメント会社は"自分たちがクールなサークルにいる"と感じさせることも重要な任務なので。。ただ、GREEとは何たるかを知るという観点からするとあのブースは不味い。実際の他所の人間のプレイが自分に影響を及ぼすことを何らかの方法で表現すべきだったように思える。
4amやクリエイトーイみたいな着地点の見えないソフトばかりを集めた闇TGSが有ればそっちに行きたい。

ソーシャルになるべきか

ソーシャル連携というのが花ざかりで、くちコミを誘発するとか色々とマーケティング的な期待もされている。ただ、ゲームのようなコンテンツと現実世界の連携というのは対立するアイデアなので慎重に選択しないといけない。
もっと単純に言うなら:

  • A) ゲームはライブである。ビデオで撮るといったパッケージングの方法は有るが、基本的にはその場の空気自体がコンテンツと言える。
  • B) ゲームは映画である。可能な限り均質な体験を可能な限り多くの人に提供する。ただ、限定上映等の形で視聴機会そのものにプレミアムを持たせることもある。

という対立を考える。もちろん、ゲームはゲームなので実際はAとBの中間の位置にある。
最近はAに限りなく回帰している。いわゆるオンラインゲームやソーシャルゲームの体験はどうやってもパッケージングできない。そしてゲームは本来Aだったことにも注目しなければならない。非電源ゲームはコンピュータが相手してくれるわけではない。
ただ、それでも個人的にはこの両方をバランスしないといけないと考える。映画のライブ演出がプリキュアのミラクルライトくらいしか無いように、演出としての必然性を意識する必要がある。

コミュニケーションメディアとピュアコミュニケーション

端的に言えば、最近、コミュニケーションメディアにゲームを挟み込むことが上手に儲ける方法として認知されている。しかし、我々は(親しい)アーティストに利益誘導しないといけない*1ので、その方法論が本当に効果的なのかどうかは常に検討しなければならない。
(購入によって代替できる)ゲーム内のパラメタに需要があるのは、システム/メディアとしての能力に制約があることを示している。ゲームの音源がPSGからPCMになったように、映像がスプライトからポリゴンになったように、魅力を表現する手段も何らかの進化の余地がある。それが現在広く検討されているようなシステムとの緊密な統合なのかはなんとも言えない。
というわけで個人的にはソーシャル分離のための上手い方策が必要と感じている。
例えば、プラットフォームが大量の画像や動画を無料で保持できるようになったことで、ディスプレイやイメージセンサにコストが掛けられるようになった。ディスプレイやイメージセンサ自体がプラットフォームと連携しているわけではない。同様に、純粋なコミュニケーションプラットフォームの機能性で、コストのかかる映像や音楽、ゲームデザインを売ることができるような気がしている。

*1:要するにここでは"パラメタアーティスト"に注目していない。ゲームバランスやゲームの中毒性がデザインなのかというと絶妙なところだが、そう認知している人も多いように感じる。